新 忠篤氏 復刻

新 忠篤氏 復刻 ダイレクト・トランスファー・シリーズ

78CDR-3350〜3399

レコード番号

タイトル

演奏者

説明

33CDR-3350

 

試聴

クリスマス・ツリー
1. 古いクリスマスの歌
2. おお聖なる夜
3. 飼い葉桶のそばの羊飼いたち
4. 誠実な人びとよ来れ(東方の三人の博士聖者の行進)
5. スケルツォーソ(クリスマス・ツリーに点火する時)
6. グロッケンシュピール
7. 子守歌
8. 古いプロヴァンスのクリスマスの歌
9. 夕べの鐘
10.昔むかし
11.ハンガリー風
12.ポーランド風

アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)

米 SOCIETY OF PARTICIPATING ARTISTS SPA-26(Mono)
(1952年春頃録音)
このピアノ組曲はリストが孫娘のダニエラのために作曲した。ダニエラはコジマとハンス・フォン・ビューローの娘で作曲年代は1874-6年頃とされている。この組曲の中に聴いたことのあるクリスマスキャロルが数曲あって心が和む。他の曲はリストのオリジナル作品。アルフレッド・ブレンデル(1931-)は北モラヴィアのヴィーゼンベルク生まれ、オーストリアのグラーツ音楽院で学んだ。1949年ブゾーニ国際コンクールで入賞後、ウィーン・デビュー。その後エトヴィン・フッシャーのマスタークラスを受講し多大な影響を受けた。この録音はブレンデルが20代の半ばにアメリカのSPAレコードに録音したもので、ほとんど知られていないもの。ここに既にブレンデルの音楽が聴ける貴重なアルバム。SPAにはもう一枚R.シュトラウスの5つの小品とピアノ・ソナタ(SPA-26)があり、33CDR-3337で出ている。

78CDR-3351

 

試聴

ベルリオーズ:幻想交響曲作品14

シャルル・ミュンシュ指揮
フランス国立放送管弦楽団

仏 COLUMBIA LFX 880/85
(1949年9月9日パリ、シャンゼリゼ劇場録音)
1950年フランス・ディスク大賞受賞レコード。指揮者のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学んだ。1928-32年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のソロ第一ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた、1938年-45年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者をつとめ、1939年には同音楽院の指揮科の教授に任命された。1949年にボストン交響楽団の正指揮者となり1962年までつとめた。これはボストンに出向く直前にパリで録音された貴重なSPレコード。数種類あるミュンシュの「幻想交響曲」の最初の録音。

78CDR-3352

 

試聴

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54

イヴ・ナット(ピアノ)
ウジェーヌ・ビゴー指揮管弦楽団

仏 COLUMBIA LFX 320/23
(1933年4月25-26日パリ録音)
1933年フランス・ディスク大賞受賞レコード。イヴ・ナット(1890-1956)はフランスノピアニスト。1907年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスで一等賞を得てデビュー、1910年代からアメリカ、ヨーロッパ、ロシアとコンサート・ピアニストとして活躍した。演奏家として絶頂期の1934年にパリ音楽院の教授に任命され、生涯その地位にあった。このシューマンはナットが音院教授に就任の前年のもの。ナットは1929年にリストのハンガリー狂詩曲第2番が初レコード録音だったが、これは2番目レコード録音。ナットの門下生にはユーリ・ブコフ、イエルク・デムス、ジャクリーヌ・エマール、レーヌ・ジャノリ、ジュヌヴィエヴ・ジョワ、ジャック・ルーシェ、ジャン・ヌヴー、ロベール・ヴェイロン=ラクロワなどがいる。ウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)は華麗な経歴を持つフランスの指揮者。SPレコード時代に数多くの録音がある。

78CDR-3353

 

試聴

シューベルト:
ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番ト短調作品137-3 D408
ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ト短調作品137-1 D384
ロンド

ジャック・ティボー(ヴァイオリン)
タッソ・ヤノプロ(ピアノ)

仏 DISQUE GRAMOPHONE DB11103/4
(1944年5月28日パリ、ペルーズ・スタジオ録音)
第2次世界大戦下のパリでの録音。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀前半に活躍したフランスの大ヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院のマルタン・マルシック(1848-1924)に師事し、1896年16歳で一等賞を得た。生活のためにカフェのコンセール・ルージュで弾いていたところを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1836-1910)に見いだされ楽員に採用された。そのとき、ティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)もコロンヌの楽員になった。1905年にピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とトリオを結成し1930年頃まで活動した。ティボーは1923年と1936年に来日、1953年の3度目の来日時、乗っていたエール・フランス機がアルプスの支峰スメ山に激突し死亡した。享年72歳。この録音と同日に録音されたラヴェルとフォーレの小品2曲は78CDR-3149で出ている。

33CDR-3354

 

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メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」

ルドルフ・ケンペ指揮
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

チェコ SUPRAPHON LPV 213(MONO)
(録音:1952年7月15日)
ルドルフ・ケンペ(1910-1976)はドレスデン生まれ、オーボエを学んだ。1929年にライプツィヒ・ゲヴァントハウスのオーボエ奏者となり、当時ブルーノ・ワルター(1876-1962)が首席指揮者、シャルル・ミュンシュ(1891-1966)がコンサートマスターをつとめていた。1950年にドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任した。この録音はチェコ・スプラフォンの録音でドレスデン時代のケンペの指揮を貴重な録音。録音の古さを吹き飛ばす圧倒的な感激をもたらす快演。近年再評価の高いこの指揮者の原点を是非聴いていただきたい。

33CDR-3355

 

試聴

ベートーヴェン:
交響曲第2番ニ長調作品36
交響曲第4番変ロ長調作品60

ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

米 COLUMBIA MS-6078 (第2番), MS-6055(第4番)
(録音:1959年1月5&9日=第2番, 1958年2月8&10日ハリウッド, アメリカン・リージョン・オーディトリアム)
ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音されたもの。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。

78CDR-3356

 

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フォーレ:レクイエム作品48

マルノリ=マルセイヤック(ソプラノ)
ルイ・マルテュリエ(バス)
ギュスタヴ・ブレ指揮
パリ・バッハ協会合唱団と管弦楽団
アレックス・セイエ(オルガン)

仏 LA VOIX DE SON MAITRE W 1154/8
(1929年3月パリ録音)
この曲の世界初録音。初CD化。指揮者のギュスタヴ・ブレ(1875-1969)は作曲をウィドール(1844-1937)に学び、オラトリオを残している。また "プレス" 紙に批評を書いていた。ドビュッシーのペレアスとメリザンドに糾弾の炎が上がった時この作品擁護側に立った。1904年にバッハ協会を設立した。セヴェラック(1873-1921)やフォーレ(1845-1924)との親交があった。アレックス・セイエ(1883-1968)は1910年から1969年までパリ・エトワール寺院のオルガン奏者をつとめた。この演奏は作曲者フォーレと同時代の息を吸った音楽家の時代証言とも言えるもので、原盤のノイズなどの悪条件を越えた音楽は、後世の演奏の規範になると考え復刻した。現代演奏にはない不思議な感動がある。このシリーズではリヨンのサン=ジャン大聖堂で1938年に録音されたエルネスト・ブールモーク指揮の同曲(78CDR-3304)も出ている。

78CDR-3357

 

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ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」

レオポルド・ストコフスキー指揮
交響楽団
ミッチェル・ミラー(イングリシュ・ホルン)(第2楽章)

米 VICTOR 18-0194/8(Set DV 25)
(1947年12月19&21日録音)
RCA VICTORのビニールプレスの78回転SP盤復刻。指揮者のレオポルド・ストコフスキー(1882-1977)はロンドン生まれ。最初教会のオルガニストだったが指揮者になり1912年フィラデルフィア管弦楽団の指揮者に就任し1940年までその地位にあった。その後数多くのオーケストラを指揮し、1965年に来日したこともある。ストコフスキーはレコード録音に積極的で、機械式録音時代の1917年にハンガリー舞曲第5番&第6番をヴィクターに初録音。1925年には電気録音による初のオーケストラ録音をした。また1932年にはベル研究所では世界初のステレオ録音の実験に参加した。この録音は第2次世界大戦後、自ら優秀なミュージシャンを集めて組織した特別オーケストラ(ストコフスキーと彼の交響楽団)によっての録音。第2楽章のイングリッシュ・ホルンはイーストマン音楽学校出身のミッチェル・ミラー(1911-2010)が起用されている。ミラーはミッチ・ミラーの名でクシックの木管奏者から、レコード会社のプロデユーサー/アーティストとして、戦後のアメリカポップス界で大活躍した人物。

78CDR-3358

 

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ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
アレクサンドル・ガウク指揮
ソヴィエト国立放送管弦楽団

ソ連 MK D-01930/41
(1950年録音)
ソ連製SPレコードからの復刻。ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)はオデッサに生まれた大ヴァイオリニスト。1937年ブリュッセルのエリーザベト王妃音楽コンクールに優勝した。モスクワ音楽院で後進の指導をしていたが、ソビエトの第2次世界大戦参戦で慰問演奏を行った。その後の活躍はめざましく、20世紀後半に活躍した世界屈指のヴァイオリン奏者であった。オイストラフはベートーヴェンの協奏曲を3回録音しているが、これは第1回目の録音。鉄のカーテンの奥に閉ざされた時代のもので、SP録音ながらソ連の録音技術の高さを感じさせるもの。LP初期にアメリカのマイナーレーベル数社から同一演奏が発売されたことがあったが、このオリジナルSP盤の演奏は別物のように聴こえる。アレクサンドル・ガウク(1893-1963)は指揮者で作曲家、ソ連の音楽界を支えた人物であった。

33CDR-3359

 

試聴

J.S.バッハ:ヴァイオリンとハープシコードのためのソナタ集-1       
ソナタ第1番ロ短調 BWV 1014
ソナタ第2番イ長調 BWV 1015
ソナタ第3番ホ長調 BWV 1016

アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
ラルフ・カークパトリック(ハープシコード)

米 COLUMBIA ML2109/10(MONO)(1950年発売)

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レコード番号

タイトル

演奏者

説明

33CDR-3360

 

試聴

J.S.バッハ:ヴァイオリンとハープシコードのためのソナタ集-2       
ソナタ第4番ハ短調 BWV 1017
ソナタ第5番ヘ短調 BWV 1018
ソナタ第6番ト長調 BWV 10198

アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
ラルフ・カークパトリック(ハープシコード)

米 COLUMBIA ML2110/11(MONO)(1950年発売)
(1945年11月26日、1947年1月1月13&27日録音)
ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニアのヴィルナの生まれ。ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者として活躍、ナチスの迫害を逃れ四重奏団の他のメンバーと共にアメリカに移住した。シュナイダーは1932年から44年、55年から67年に四重奏団に在籍し、それ以外の期間はシュナイダー四重奏団やソリストとして活動した。J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを1949年に録音した(33CDR-3307、33CDR-3308分売)。ハープシコードのラルフ・カークパトリック(1911-1984)はアメリカの音楽学者、ハープシコード奏者。ハーバード大学卒業後ヨーロッパ各地に留学。パリでナディア・ブーランジェとワンダ・ランドフスカに、ライプツィヒでギュンター・ラミンに師事した。シュナイダーとのデュオでは他に1950年録音のヘンデル(33CDR-3327)、モーツァルトのソナタを残している。

33CDR-3361

 

試聴

ベートーヴェン:
交響曲第7番イ長調作品92
交響曲第8番ヘ長調作品93

ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

米 COLUMBIA MS-6082(第7番)、M2S-608(第8番)
(録音:1958年2月1、3 & 12日=第7番、1958年1月8、10、13 & 2月12日=第8番、
ハリウッド、アメリカン・リージョン・オーディトリアム)
ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音されたもの。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。

78CDR-3362

 

試聴

ベートーヴェン:
弦楽四重奏曲イ短調 作品132
(HMV 盤特有のノイズあり)

ブッシュ弦楽四重奏団
アドルフ・ブッシュ(第1ヴァイオリン)
ゲスタ・アンドレアソン(第2ヴァイオリン)
カール・ドクトル(ヴィオラ)
ヘルマン・ブッシュ(チェロ)

英 HIS MASTER'S VOICE DB3375/80S
(1937年10月7日ロンドン、EMI 第3スタジオ録音)
ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英 HIS MASTER'S VOICE に多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオ録音でも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカ COLUMBIA に録音を再開した。このシリーズではヨーロッパ時代に録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番作品135(78CDR-3195)とアメリカに渡ってから録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)が出ている。

78CDR-3363

 

試聴

シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」作品42

ロッテ・レーマン(ソプラノ)
室内楽団

英 PARLOPHONE RO20090/93
(1928年11月10日ベルリン録音)
ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのソプラノ。ペルレベルク生まれ。ベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビュー、1914年にはウィーン宮廷歌劇場にデビューした。彼女はリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメツッオ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲を得意とした。ここではピアノ伴奏部を室内オーケストラに編曲してある。これはマイクロフォンを使用しなかった機械式録音のなごり。ピアノだけでは寂しい音だったからだ。レーマンはこの録音時40歳、彼女は1941年にブルーノ・ワルターのピアノでこの曲集を再録音した。レーマンはこのシリーズでシューベルト:「冬の旅」(全曲)(78CDR-3049 & 3049)、シューベルト:「美しき水車屋の娘」(全曲)(78CDR-3079)、 R. シュトラウス:歌曲集(78CDR-3348)が出ている。

78CDR-3364

 

試聴

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第10番変ホ長調作品74「ハープ」

カペー弦楽四重奏団
リュシアン・カペー(第1ヴァイオリン)
モーリス・エヴィット(第2ヴァイオリン)
アンリ・ブノワ(ヴィオラ)
カミーユ・ドローベル(チェロ)

英 COLUMBIA L2248/51(仏 COLUMBIA D15061/4と同一録音)
(1928年6月21-22 日パリ録音)

78CDR-3365

 

試聴

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132

カペー弦楽四重奏団
リュシアン・カペー(第1ヴァイオリン)
モーリス・エヴィット(第2ヴァイオリン)
アンリ・ブノワ(ヴィオラ)
カミーユ・ドローベル(チェロ)

英 COLUMBIA L2272/76(仏 COLUMBIA D15114/8と同一録音)

 

(1928年10月8-10日パリ録音)

78CDR-3366

 

試聴

モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番ハ長調 K.465

カペー弦楽四重奏団
リュシアン・カペー(第1ヴァイオリン)
モーリス・エヴィット(第2ヴァイオリン)
アンリ・ブノワ(ヴィオラ)
カミーユ・ドローベル(チェロ)

日本 COLUMBIA J7786/9(仏COLUMBIA D15110/13と同一録音)
(1928年10月11日パリ録音)
「人類の遺産」の一つに数えられるカペー弦楽四重奏団が1928年にフランス・
コロンビアに録音した一曲である。リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)は医師の誤診による腹膜炎で1928年12月18日に急逝した。享年55歳。カペーは1893年パリ音楽院で一等賞を得て、その年に弦楽四重奏団を組織した。1920年頃から毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をパリで開催していた。カペーは1928年6 月10日から10月15日にかけてフランス・コロンビアに12曲51枚の録音をした。まるで自らの死を予期したようなハイペースの録音だった。このシリーズでは12曲の全録音が揃った。最上のSP盤復刻として評判が高い。

33CDR-3367

 

試聴

シューベルト:
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲ハ長調作品159 D.934
コレッリ(レオナール編):ラ・フォリア
ドビュシー(ローラン編):月の光(「ベルガマスク組曲」より)
ラロ(シゲティ編):オバド(「イスの王」より)
チャイコフスキー(グリューンズ編):感傷的なワルツ作品51-6

ヨゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
ジョゼフ・レヴィン, アンドル・フォルデス, ハリー・カウフマン(ピアノ)

米 COLUMBIA ML4338
(録音: 1949年11月21日(シューベルト)、1940年6月5日(コレッリ)、
1941年11月26日(ドビュッシー)、1941年3月21日(ラロ)、
1944年12月4日(チャイコフスキー)ニューヨーク)
ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽アカデミーでイェノ・フバイ(1858-1937)に師事し、13歳でデビューした。1917年から1924年スイスのジュネーヴ音楽院で教えた。シゲティは1940年にアメリカに移住した。ピアニストのジョゼフ・レヴィン(1874-1944)はウクライナ出身のユダヤ系ロシア人。1892年モスクワ音楽院のピアノ科を同級のスクリャービンやラフマニノフを抑えて大金メダルを得て卒業した。演奏家として教師として第1次世界大戦前に名声が高かったが反ユダヤ運動にあい1919年にアメリカに移住した。ジュリアード音楽院でのピアノ教育と演奏家活動をした。夫人のロジーナ・レヴィン(1880-1976)もピアニストで教師としても高名だった。シューベルトはヨーロッパを捨てた二人の巨匠二人の記念碑的録音の初復刻。LPのB面はシゲティ「アンコール集」。この中の「ラ・フォリア」はSP盤からの復刻が78CDR-3236で出ている。この時代のアメリカ・コロンビアは16インチのアセテート盤をマスターに使用していた。LPはアセテート盤から作られたもので、SP盤からの復刻ではない。

78CDR-3368

 

試聴

ベートーヴェン:
ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調作品47「クロイツェル」

アドルフ・ブッシュ(ヴァイオリン)
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)

米 COLUMBIA ML4007
(1941年12月12日ニューヨーク録音)
アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツのヴァイオリニスト。ラッパ吹き込み時代のドイツ・ポリドールにもレコードがあった。ブッシュは1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍、1936年にゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚した。二人はナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住し、1939年にはブッシュ自身も弟のチェリスト、ヘルマンと共にドイツを去りアメリカに定住した。この「クロイツェル」はアメリカ・コロンビアの録音で、録音日は日米開戦(1941年12月8日)の 4日後だった。当時アメリカ・コロンビアではマスターとして16インチのアセテート盤に録音していた。このマスターから78回転盤に転写してSPレコードが作られた。LP時代になってからは同じアセテート盤マスターからLPが作られた。ということはこれはSP盤の復刻LPではなく、SPと同一のマスターから作られたLPである。この「クロイツェル」は1948年アメリカ・コロンビアのLP第1回発売のラインナップに加えられた。ブッシュとゼルキンのベートーヴェンはヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「スプリング」(1933年HMV録音)が78CDR-3222で出ている。

78CDR-3369

 

試聴

ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

英 HIS MASTER'S VOICE DB 9266/9302
(1947年11月10-12、17日、1949年2月15日 ウィーン、ムジークフェライン、大ホール録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)はドイツの大指揮者。1937年ベートーヴェンの「運命」をベルリン・フィルとHMVに録音したのに続き、この「英雄」はベートーヴェンの第二弾録音にあたる。オーケストラはウィーン・フィル。大戦後間もない1947年11月に4日間かけて録音が行なわれ、1年3カ月後の1949年に修正録音を行い全曲が完成した。フルトヴェングラーは1952年11月に再度ウィーン・フィルと「英雄」を録音しているので、このSP録音はあまり知られていない。ムジークフェライン大ホールの残響はLP録音よりずっと美しい。これまでの復刻盤にはなかった低音部の動きにも耳を傾けていだきたい。

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レコード番号

タイトル

演奏者

説明

78CDR-3370

 

試聴

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67「運命」

ウィレム・メンゲルベルグ指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

独 TELEFUNKEN SK 2210/13
(1937年5月4日アムステルダム、コンセルトヘボウ録音)
ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年、24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任し、1921年-1930年にはニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の首席指揮者を兼任している。レコード録音は機械式録音時代と電気録音初期に米ヴィクター、電気初期のコンセルトヘボウとの録音は英コロンビアと独オデオンにあり、電気録音の完成期には独テレフンケンに多数ある。またコンセルトヘボウとの放送ライブ録音はLP時代になってフィリップスから発売された。この「運命」はテレフンケン期のはじめの録音で、実に生々しい演奏が録られているが、残念なのはハム音が入っていること。復刻に際してこのハムを除去すると壮烈な演奏の感動が半減してしまうため、ここでは何も電気処理をしていない。

78CDR-3371

 

試聴

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」

ブルーノ・ワルター指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

仏 LA VOIX DE SON MAITRE DB 3051/5
(英 HIS MASTER'S VOICE DB 3051/5 と同一録音)
(1936年12月5日ウィーン、ムジークフェライン大ホール録音)
ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルグ歌劇場の指揮者をしていた時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任、またウィーン・フィルハーモニーやベルリン・フィルハーモニーも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音はウィーンのムジークフェライン大ホールで録音されたもので、美しい残響を伴ったオーケストラの音色が名演奏に花を添えている。ワルターとウィーン・フィルの録音はワルター自身がピアノを弾いたモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(78CDR-3219)がこのシリーズで出ている。

33CDR-3372

 

試聴

ショパン:
ピアノ協奏曲第1番ホ長調作品11
即興曲 第1番変イ長調作品29
即興曲 第2番嬰ヘ長調作品36
即興曲 第3番変ト長調作品51
幻想即興曲嬰ハ短調作品66 (4:12)

ミエツィスワフ・ホルショフスキ(ピアノ)
ハンス・スワロフスキー指揮
ウィーン市立フィルハーモニア

英 VOX PL 7870
(録音:1953年)(初期LP特有の雑音が出ます)
ミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれのピアニスト。99歳までコンサート・ステージに登場していた。母親はショパンの直弟子カール・ミクリ(1819-1897)に学んだピアニスト。 4歳の頃から神童といわれ、1899年にウィーンに移り住み、名教師レシェティツキの指導を受けた。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストをつとめた。このシリーズで第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3084)が出ている。第2次世界大戦中にアメリカに移住、フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進の指導にあたる一方、室内楽奏者としての録音が多い。指揮者のハンス・スワロフスキー(1899-1975)はブダペスト生まれ。ウィーンで活躍した。

78CDR-3373

 

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ベートーヴェン:
ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24「春」
ヴァイオリン・ソナタ第6番イ長調作品30-1

ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
ミエツィスワフ・ホルショフスキ(ピアノ)

米 COLUMBIA ML4870
(1953年11月27日=第5番、 1953年12月1日=第6番ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ録音)
ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリーのブダペスト生まれの名ヴァイオリニスト。ヨーロッパで名声を確立した後、1940にアメリカに移住した。この録音はLP時代になってからのもの。ピアノのミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれのピアニスト。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストを務めた。このシリーズで第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3084)が出ている。第2次世界大戦中にアメリカに移住。ブダペスト弦楽四重奏団との共演やシゲティとの録音も多い。1961年11月13日にケネディ大統領に招待されたホワイトハウスコンサートでもチェロのカザルス、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーと共に出演した。1987年、95歳の時に初来日、東京のカザルス・ホールのオープニングで演奏。1993年101歳で死去した。

78CDR-3374

 

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ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92

ハンス・クナッパーツブッシュ指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団

仏 ODEON 170.120/24 (独 ODEON O-6775/9 と同一録音)
(1929年11月19日ベルリン録音)
ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は20世紀の半ばに活躍したドイツの指揮者。オランダ国境に近い現在のウッパータールに生まれた。ボン大学で哲学を修めた後ケルン音楽学校で指揮法を学んだ。この録音は電気録音初期のオデオンへの録音。同時期にポリドールにも録音していた。クナッパーツブッシュはSP時代にベートーヴェンはこの第7番と第3番「英雄」の2曲のスタジオ録音がある。放送録音の多いこの指揮者の交響曲のスタジオ録音はたいへん貴重。このシリーズではベルリン・フィルを指揮した「英雄」(78CDR-3102)が出ている。「英雄」は第2次世界大戦末期の1943年にエレクトローラが録音したドイツでの戦前最後の商業録音であった。

78CDR-3375

 

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ショパン:ワルツ(全14曲) ディヌ・リパッティ(ピアノ)

仏 COLUMBIA LFX959/964(英COLUMBIA LX1341/6 と同一録音)
(1950年7月3-12日スイス、ジュネーヴ放送第2スタジオ録音)
(上記の日付は磁気テープから78回転マスター製作日)
ディヌ・リパッティ(1917-1950)はルーマニアのブカレスト生まれ。母親はピアニスト、父親はサラサーテ(1844-1908)やカール・フレッシュ(1873-1944)に学んだヴァイオリニストで、洗礼立会人は大ヴァイオリニストのジョルジュ・エネスコ(1881-1955)だった。ブカレスト音楽学校で学費免除の特待生で入学が許された。1934年のウィーン国際コンクールで2等賞になったが、この時の審査席にいたアルフレッド・コルトー(1877-1962)は結果に異議を申し立て審査員を辞職した。リパッティはパリでコルトーとイヴォンヌ・ルフェビュール(1898-1986)に師事、シャルル・ミュンシュ(1891-1968)は指揮法を教えた。また作曲をナディア・ブーランジェ(1887-1979)とイーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)に学んだ。リパッティは1950年12月2日スイスのジュネーヴで悪性リンパ腫のため33歳で没した。このワルツ集は死の年の夏、EMIの手配したテープ録音機を乗せたトラックがジュネーヴに赴き録音したもの。ヨーロッパではまだSPレコードが主流だったため、ロンドンのアビー・ロードのEMIスタジオでテープから78回転マスターがカットされた。LPで聴くリパッティよりはるかに輝かしいSPからのダイレクト・トランスファー。

78CDR-3376

 

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ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番ヘ長調作品96「アメリカ」

ブダペスト弦楽四重奏団
エミル・ハウザー(第1ヴァイオリン)
イムレ・ポガニー(第2ヴァイオリン)
イシュトヴァン・イポリ(ヴィオラ)
ハリー・ソン(チェロ)

米 VICTOROLA 9069/71(英 HMV D1124/6と同一録音)
(1926年2月2日ロンドン録音)
※復刻はオリジナルの回転数のままで行なっています。
ブダペスト弦楽四重奏団は1917年、ブダペスト歌劇場管弦楽団のメンバーによって結成された。そのオリジナル・メンバー(第2ヴァイオリンだけは2代目)による電気録音最初期のもの。1930年代になってからリーダーはロシア人のヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、他の奏者も全員ロシア出身の音楽家に代り、20世紀半ばに活躍した偉大なる弦楽四重奏団になった。その団体の原点にあたるオリジナル・ブダペスト弦楽四重奏団は同じハンガリー出身のレナー弦楽四重奏団を追ってHMVレーベルに登場。軽やかな足取りの爽やかな演奏スタイルが、後年のロイスマン時代とは異なる。希少な室内楽録音の登場である。

33CDR-3377

 

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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77

ジャニーヌ・アンドラード(ヴァイオリン)
ハンス・ユルゲン・ワルター指揮
ハンブルグ・プロムジカ交響楽団

仏 VEGA 30MT 10.121
(録音:1954年)
ヴァイオリンのジャニーヌ・アンドラード(1918-?)はフランスのブザンソン生
まれ。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し12歳で一等賞を得た。パリ音楽院ではは同年代のドニーズ・ソリアノ(1916-2006)、ローラ・ボベスコ(1919-2003)、ジネット・ヌヴー(1919-1949)らがブーシュリ教授の下で研鑽を積んでいた。アンドラードは作曲家でパリ音楽院の学長をつとめたクロード・デルヴァンクール(1888-1964)の「古い舞曲」を作曲者のピアノ伴奏で1943年にフランス・コロンビアにSP録音した(「ジュール・ブーシュリとその弟子たち」グリーンドア GD-2030に抜粋収録)。また1950年代にはスプラフォンに小品集を録音した(DENONからCD発売)。さらに1968年にはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第2番K.211 と第6番K.268 をクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とステレオ録音した(CDはBERLIN CLASSICS 0181422BC)。このブラームスと共にいずれもパリ音楽院楽派のヴァイオリンの香りの高い名演奏を繰り広げている。

33CDR-3378

 

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ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ
ヒンデミット:ヴァイオリン・ソナタ第3番ホ調
プロコフィエフ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタニ長調作品115
ヴァイオリンとピアノのための5つの小品作品35a

ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
カルロ・ブソッティ(ピアノ)

米 COLUMBIA ML5178(初期LP特有のノイズ)
(1953年11月12-13日、12月3日& 1954年1月12日、 4月1日、
ニューヨーク30丁目、コロンビア・スタジオ録音)
ヴァイオリンのヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年ベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年にスイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。ピアノのカルロ・ブソッティ(1922-2002)はイアリアのフィレンツェ生まれ。13歳でケルビーニ音楽院を卒業、第2次大戦中はイタリア軍に従軍、戦後はコンサート・アーティスト、レコーディグ・アーティストとしてアメリカで活躍した。LP初期にあったハイドン協会レーベルにソロ録音がある。晩年はサンフランシスコ大学で教鞭をとっていた。

78CDR-3379

 

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ドビュッシー:弦楽四重奏曲ト短調作品10
ハイドン:弦楽四重奏曲ニ長調作品64-5「ひばり」より第4楽章

パガニーニ弦楽四重奏団
アンリ・テミアンカ(第1ヴァイオリン)
ギュスタヴ・ロッセール(第2ヴァイオリン)
ロベール・クルト(ヴィオラ)
ロベール・マース(チェロ)

米 RCA VICTOR 12-0259/62(Set M-1213)
(1947年1月22-23日録音)
パガニーニ弦楽四重奏団は1946年、アンリ・テミアンカ(1906-1992)によって結成された。結成の前年テミアンカは元プロアルト弦楽四重奏団のチェリスト、ロベール・マースに会った。マースは新しい四重奏団のためのスポンサーになる人物がいることを話し、またニューヨークの楽器店で売り出されていたパガニーニ(1782-1840)が所有した4本のアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)製の楽器を同じスポンサーが購入して貸与されることで四重奏団はスタートした。1946-47年のシーズンにオール・ベートーヴェンのプログラムをワシントンの国会図書館で演奏し大成功を収め、すぐにRCAヴィクター社が契約した。リーダーのテミアンカはスコットランドでポーランド・ユダヤ系の両親の元に生まれた。ヴァイオリンはロッテルダム、ベルリン、パリ、フィラデルフィアで学んだ。パリ音楽院では名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し、フィラデルフィアのカーティス音楽院ではカール・フレッシュ(1873-1944)に師事した。1935年のヴィエニアフスキ・ヴァイオリン・コンクールでは3位に入賞した。この時の1位はジネット・ヌヴー(1919-1948)、2位はダヴィド・オイストラフ(1908-1974)だった。パガニーニ四重奏団が1966年に解散した後、スポンサーの意向で楽器は分散することなくワシントンのコーコラン・アート・ギャラリーに戻された。楽器は1992年にクリーヴランド四重奏団に貸与され、1994年から日本音楽財団の所有となり、東京クァルテットによって使用された。

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レコード番号

タイトル

演奏者

説明

78CDR-3380

 

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モーツァルト:
ヴァイオリン・ソナタ第24番ハ長調 K.296
ヴァイオリン・ソナタ第35番ト長調 K.379(373a)
ヴァイオリン・ソナタ第41番変ホ長調 K.481

リリー・クラウス(ピアノ)
シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)

英 PARLOPHONE SW8000/6
(1935年11月5-6 日(K.296)、1935年5月25日&11月6日(K.379)、1936年2月(K.481)
ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)とピアノのリリー・クラウス(1903-1986)によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集-1。ポーランド生まれのゴールドベルクは8歳の時ベルリンで名教師カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、12歳でワルシャワでデビューした。1916年16歳でドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに任命され、1929年20歳の時フルトヴェングラー(1886-1954)の招きでベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターに就任した。1934年ドイツで政権を得たナチスによってベルリン・フィルのコンサート・マスターの地位を追われ、ニューヨークでデビュー後、1942年からアジア楽旅を行った時日本軍により1945年までジャワ島での抑留生活を強いられた。戦後アメリカ国籍を得て、演奏活動と後進の指導に活躍、1990年から没年まで新日本フィルハーモニーの指揮者に就任し、富山県の立山のホテルにて死去した。(リリー・クラウスは78CDR-3381参照)

78CDR-3381

 

試聴

モーツァルト:
ヴァイオリン・ソナタ第34番変ロ長調 K.378(317d)
ヴァイオリン・ソナタ第36番変ホ長調 K.380(374f)
ヴァイオリン・ソナタ第33番ヘ長調 K.377(374e)

リリー・クラウス(ピアノ)
シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)

英 PARLOPHONE SW8007/12
(1937年4月20日(K.378)、1937年4月20-21日(K.380)、1937年4月15日(K.377)録音)
ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)とピアノのリリー・クラウス(1903-1986)によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集-2。ピアノのリリー・クラウスはハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でゾルタン・コダーイ(1882-1967)やベラ・バルトーク(1881-1945)に師事した。さらにウィーンでアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)の指導をえた。1942年シモン・ゴールドベルクアジア楽旅の時、ジャワ島で日本軍に捕らえられ、家族共々1945年まで抑留生活を送った。戦後はイギリス国籍を取得し活発な演奏活動を行った。(シモン・ゴールドベルクについては3380を参照)

33CDR-3382

 

試聴

ドビュッシー:ピアノ名曲集
(1)アラベスク第1番ホ長調
(2)雨の庭
(3)沈める寺
(4)吟遊詩人
(5)アナカプリの丘
(6)ゴリウォッグのケークウォーク
(7)月の光
(8)喜びの島

ジャクリーヌ・エマール(ピアノ)

仏 LE CHANT DU MONDE LD-S-8169(Mono)
(1954年パリ録音)初期LP特有のノイズあり
ジャクリーヌ・エマール(1922-2008)はニースに生まれたフランスの女流ピアニスト。パリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)に師事した。メジャー・レーベルの録音はフランク:ピアノ五重奏曲(レーヴェングート四重奏団と共演)がフランス・フィリップスにあった。この録音はフランスのシャン・デュ・モンドの10インチ盤に残されたもの。有名曲揃いで楽しめる。初期LP特有のノイズがある。

33CDR-3383

 

試聴

ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタト短調

ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
ジャン・ヌヴー(ピアノ)

英 HIS MASTER'S VOICE HLM 7178(Mono)
(1948年3月18日アビー・ロード、EMI 第3スタジオ録音)
ジネット・ヌヴー(1919-1949)はアメリカへの演奏旅行に向かう航空機の事故で1949年10月28日に30歳の生涯を終えた。彼女が残した最後のスタジオ録音である。ヌヴーはジョルジュ・エネスコ(1881-1955)に手ほどきを受けた後、11歳でパリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1878-1962)のクラスに入り8カ月後に一等賞を得た。その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)のもとで研鑽を積んだ。1935年にワルシャワで開催されたヴィエニアフスキ・ヴァイオリン・コンクールに16歳で参加し180人の競争者に勝ち優勝した。第2位はソ連から参加したダヴィド・オイストラフ(1908-74)、第3位はスコットランド出身でパリ音楽院でブーシュリに師事したアンリ・テミアンカ(1906-92)だった。この録音は1948年に78回転SPレコード3面に収録されたが、SP時代には発売されなかった。1957年にLPで初めて発売された(英HIS MASTER'S VOICE ALP 1520)。ダイレクト・トランスファーでは2012年のドビュッシー生誕150年を記念してドビュッシーだけを収録した。ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタはジャック・ティボーのヴァイオリンとアルフレッド・コルトーのピアノによる1929年の録音がこのシリーズで出ている(78CDR-3044)。

33CDR-3384

 

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J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(1)
ソナタ第1番ト短調 BWV 1001
パルティータ第1番ロ短調 BWV 1002
ソナタ第2番イ短調 BWV 1003

ジョルジュ・エネスコ(ヴァイオリン)

米 CONTINENTAL CLP-104/5A
(1949年ニューヨーク録音)
ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)はルーマニアに生まれ、4歳でヴァイオリンを、5歳で作曲を始めた。7歳でウィーン音楽大学に入学を許され、1893年12歳で音楽院の最高メダルを得た。1894年にパリ音楽院に入学、ヴァイオリンをマルシック(1848-1924)、和声学と作曲をアンドレ・ゲダルジュ(1856-1928)、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)、ジュール・マスネ(1842-1914)に師事し、1899年にヴァイオリンで一等賞を得た。1902年にベルリンでデビュー、1903年にはロンドンを訪問した。1910年にはピアニストのエドゥアール・リスレル(1873-1929)とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏会を開いた。1917年には祖国ルーマニアの首都ブカレストにエネスコの名を冠したオーケストラを作った。(以下33CDR-3385)

33CDR-3385

 

試聴

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(2)
パルティータ第2番ニ短調 BWV 1004
ソナタ第3番ハ長調 BWV 1005
パルティータ第3番ホ長調 BWV 1006

ジョルジュ・エネスコ(ヴァイオリン)

米 CONTINENTAL CLP-105B/6
(1949年ニューヨーク録音)
エネスコは1923年に初のアメリカ楽旅をしその後生涯14回この地を訪れた。エネスコのレコード録音は1924年アメリカ・コロンビアの機械式録音(78CDR-3066)に始まる。1929年のアメリカ・コロンビアへの6枚の電気録音はレコード史上に輝く最高傑作とされている(78CDR-3018、78CDR-3035、78CDR-3088)。このJ.S バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲はJ.S.バッハの没後200年にあたる1950年にアメリカのマイナーレーベルCONTINETALから発売された。豪華な3枚組アルバム入りのセットは、エネスコ最晩年の心血を注いだ演奏で、演奏家や心あるレコード愛好家が絶賛したが数年でカタログから消えてしまい、クラシックLP最高のコレクター・アイテムになった。これまでの復刻とは一線を画し、オリジナル盤に秘められたエネスコの芸術の全貌が真の姿で蘇ったと確信する。

78CDR-3386

 

試聴

モーツァルト:
ホルン、ヴァイオリン、 2つのヴィオラとチェロのための
五重奏曲変ホ長調 K.407(386c)

デニス・ブレイン(ホルン)
シドニー・グリラー(ヴァイオリン)
フリップ・バートン(ヴィオラ)
マックス・ギルバート(ヴィオラ)
コリン・ハンプトン(チェロ)

英 DECCA K.1138/9
(1945年3月9日ロンドン NW6、デッカ・スタジオ録音)
夭折の天才ホルン奏者デニス・ブレイン(1921-1957)とグリラー弦楽四重奏団のメンバーにヴィオラのマックス・ギルバートが加わった五重奏。デニス・ブレインは父親のオーブリー・ブレイン(1893-1955)の指導を受けた。初レコード録音は1943年、モーツァルト: ホルン協奏曲第4番 K.495(78CDR-3291)で22歳だった。デニスは1957年9月1日、エディンバラからロンドンに戻る途中、自身の運転するスポーツカー(トライアンフTR2)の事故で命を落とした。グリラー弦楽四重奏段は1931年の結成されたイギリスの有数の四重奏団。SPレコード時代から主にデッカに多くの録音を残した。デッカのデニス・ブレインは1944年録音のチャイコフスキー:交響曲第5番第2楽章のホルンソロがシドニー・ビーア指揮ナショナル交響楽団(78CDR-3158)で聴ける。

33CDR-3387

 

試聴

モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
(カデンツンァ: シュナーベル)

アルトゥール・シュナーベル(ピアノ)
サー・マルコム・サージェント指揮
ロンドン交響楽団

(1937年1月12日ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ録音)
アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)に生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年にベルリンにデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その間演奏活動の傍らベルリン高等音楽院で教え、弟子にクリフォード・カーゾン(1907-1982)、ペーテル・フランクル(1935-)などがいる。またカール・フレッシュ(1873-1944)、パブロ・カザルス(1876-1973)、エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)、パウル・ヒンデミット(1895-1963)、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)との室内楽演奏はベルリンの呼び物だった。その後1932年から34年にロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。シュナーベルはSP時代HMVにベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲(2回)を録音した。他に室内楽の録音も多い。シュナーベルのモーツァルトはピアノ四重奏曲 K.478、協奏曲第19番 K.459、第27番 K.595、ピアノ・ソナタ第8番 K.310、第12番 K.332、第16番 K.570がある。

78CDR-3388

 

試聴

シューベルト:幻想曲ハ長調「さすらい人幻想曲」作品15、D.760 パウル・バウムガルトナー(ピアノ)

英 HIS MASTER'S VOICE C4879/81
(1949年2月3日ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ録音)
パウル・バウムガルトナー(1903-1976)はスイスのアルステッテン生まれ、ミュンヘンの高等音楽・演劇学校でヴァルター・ブラウンフェルス(1882-1954)に師事しピアノと作曲を学んだ。さらにケルン音楽アカデミーでエドゥアルト・エルドマン(1896-1958)に師事した後、そこでピアノを教えるようになった。ナチスの台頭でスイスに戻りバーゼルに居を構え、バーゼル音楽院の教授に任命された。バウムガルトナーは第1回カザルス音楽祭のピアニストとして活躍。弟子にアルフレッド・ブレンデル(1931-)、カール・エンゲル(1923-2006)や指揮者のギュンター・ヴァント(1912-2002)などがいる。1962年にセント・ガレン市の芸術栄誉賞を授与された。この録音はHMV録音だがスイスだけで発売された。

33CDR-3389

 

試聴

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調作品104

パブロ・カザルス(チェロ)
アレクサンダー・シュナイダー指揮
1960年プエルト・リコ・カザルス・フェスティバル管弦楽団

米 EVEREST LPBR 6083(Mono)
(1960年6月14日プエルト・リコ大学録音)
パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ペドレルに生まれた。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学び、1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会い1904年に公開演奏した。1905年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成した。この録音は1960年、83歳のカザルスが居を構えていたカリブ海の島国プエルト・リコ(面積は四国の約半分)で行なわれたカザルス音楽祭でのライブ録音。指揮者のアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニア生まれ。ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、シュナイダー弦楽四重奏団のリーダー、独奏者、指揮者として活躍した。1950年、隠遁生活中のカザルスを説得してプラド音楽祭を実現させた。このLPは発売直後に廃盤となったもので、多くのファンから再発売が望まれていた。

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レコード番号

タイトル

演奏者

説明

33CDR-3390

 

試聴

ベートーヴェン:
ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109
ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110

イヴ・ナット(ピアノ)

仏 LES DISCOPHILES FRANCAIS DF 109 (アクセント)
(1954年2月17日パリ、サル・エダール録音)
イヴ・ナット(1890-1956)はフランスのピアニスト。1907年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスで一等賞を得てデビューした。1910年代からコンサート・ピアニストとして活躍したが、演奏家としての絶頂期の1934年にパリ音楽院教授に任命され、生涯その地位にあった。録音は音楽院教授就任以前に録音したシューマン:ピアノ協奏曲(78CDR-3352)など僅かにあるが、晩年の1952年から56年のLP時代に多い。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタの全曲録音もある。ここに収録されたピアノ・ソナタ第32番作品111と第30番作品110は中でも最高傑作と目されているもので、初期LPのモノラルながら、録音も優れている。ナットの門下生にはユーリ・ブーコフ、イエルク・デムス、レーヌ・ジャノーリ、ジュヌヴィエーヴ・ジョワ、ジャック・ルーシェ、ジャン・ヌヴー、ロベール=ヴェイロン・ラクロワなどがいる。

78CDR-3391

 

試聴

ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68

オットー・クレンペラー指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団

英 PARLOPHONE E10807/12
(1927年12月15日、20日、1928年2月3日、 6月26-27日ベルリン録音)
オットー・クレンペラー(1885-1973)ドイツ生まれ、1910年からドイツ各地のオペラハウスでキャリアを積んだ。1927年-31年にはベルリンのクロール・オペラの指揮者をつとめた。ユダヤ人の彼は1937年ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住、市民権を得てロスアンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督のポジション得た。だがカリフォルニアの土地になじめず、神経症を病み、奇行を重ねたあげくその地位を離れた。第2次世界大戦が終わるとヨーロッパ楽壇に復帰し、1954年にEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグが組織したフィルハーモニア管弦楽団の初代首席指揮者に就任した。アメリカ時代に受けた脳腫瘍の手術の後遺症で半身不随になった彼は晩年、車椅子で指揮を続けた。この録音はクロール・オペラ時代のもので、オーケストラと指揮者のスケジュールを調整しながらの録音セッションによって録音完成までに時間をかけている。大指揮者の若い時代の演奏を、晩年の演奏と比較しながら聴かれることをおすすめする。

78CDR-3392

 

試聴

ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲イ短調作品53

ヴァーシャ・プシホダ(ヴァイオリン)
パウル・ファン・ケンペン指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団

独 POLYDOR 68201/5S
(1943年6月ベルリン録音)
ヴァーシャ・プシホダ(1900-1960)はチェコのヴォズナニーに生まれたヴァイオリニスト。11歳でプラハ音楽院に入った。ミラノの演奏会に居合わせた大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)を驚嘆させ、「新しいパガニーニ」と称賛したのがきっかけで、ヨーロッパ諸国で認められた。1921年にアメリカ・デビュー、1927年にはロンドン公演をした。プシホダは1930年にヴァイオリニストのアルマ・ロゼー(1906-1944)と結婚したが1935年に別れた。アルマ・ロゼーはウィーン・フィルのコンサートマスターを長年つとめたアルノルト・ロゼー(1863-1946)の娘。プシホダは第2次大戦中はザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった。戦後はウィーンを拠点に教鞭と演奏活動した。この録音は大戦中の1943年のものである。パウル・ファン・ケンペンは(1893-1955)はオランダの指揮者。戦中戦後を通じてドイツで活躍しレコード録音も多かった。だが戦時中祖国を離れて敵国ドイツで活動したことをオランダ人は許さず、戦後ボイコット運動が起こり不遇のうちに世を去った。

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試聴

ブラームス:歌曲集
(1)ご機嫌いかが、私の女王様作品32-9
(2)われらはさまよった作品96-2
(3)夜鳴きうぐいすに寄す作品46-4
(4)墓地にて作品105-4
(5)美しいおとめよ、私を許して- 谷間に(ドイツ民謡集より)
(6)かわいい恋人よ、素足で来ないで(ドイツ民謡集より)
(7)5月の夜作品43-2
(8)日曜日作品47-3 - おお、いとしい頬作品47-4

ロッテ・レーマン(ソプラノ
パウル・ウラノフスキー(ピアノ)

米 COLUMBIA 17273/4 & 71059/60D (set M453)
(1941年3月19日ニューヨーク、コロンビア・レコードBスタジオ録音)
ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのペルレベルク生まれ。ベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビューした。1914年にはウィーン宮廷歌劇場にデビューし、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメッツォ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲も得意とした。1938年ナチスのオーストリア併合で被害を逃れ、アメリカに移住した。この録音はアメリカ時代の初期のもの。レーマンはこのシリーズでシューベルト「冬の旅」(全曲)(78CDR-3048 & 3049、シューベルト「美しき水車屋の娘」(78CDR-3079)、R.シュトラウス: 歌曲集(78CDR-3348)、シューマン「女の愛と生涯」(78CDR-3363)が出ている。

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試聴

ミラベルの庭園にて-モーツァルト管弦楽曲集
モーツァルト:
セレナード第13番ト長調 K.525
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
メヌエットヘ長調 K.599
メヌエットハ長調 K.568
三つのドイツ舞曲 K.605
フリーメーソンのための葬送音楽 K.477(479a)
歌劇「魔笛」序曲 K.620
歌劇「フィガロの結婚」序曲 K.492
歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」序曲 K.588
歌劇「劇場支配人」序曲 K.486

ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団

蘭 PHILIPS A 01237 L(MONO)
(1954年12月28日、30日ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ録音)
ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任ーした。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はアメリカ時代の初期に、得意のモーツァルト作品を集めてLP用に録音したもの。コロンビア交響楽団の実体はニューヨーク・フィルとされている。これから登場するモノラル時代のワルターの最初の1枚に選んだ。

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試聴

モーツァルト:
クラリネット協奏曲イ長調 K.622(第1楽章終結部に原盤ノイズ)
フリーメーソンのための葬送音楽 K.477(479a)(原盤ノイズ)

フランソワ・エティエンヌ(クラリネット)
モーリス・エヴィット指揮エヴィット室内管弦楽団

仏 LES DISCOPHILES FRANCAIS 2
(1941年6月パリ録音)
フランソワ・エティエンヌ(1901-1970)はフランスのトゥーロンに生まれたクラリネット奏者。生地の音楽学校で学んだ後、パリ音楽院でプロスペル・ミマール(1859-1918)に師事し1919年に一等賞を得た。1926年にオペラ座のクラリネット奏者となり1964年まで約40年間ーその地位にあった。その間パリ音楽院管弦楽団にも席を置き1933年にソロ・クラリネット奏者に任命された。この録音は1941年6月に78回転SPレコード4枚に録音されたもので最初期のLPに転写された。再録音は1952年に同じエヴィット管弦楽団と行なわれたので混同されている。指揮者のモーリス・エヴィット(1884-1971)は元カペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者。1928年リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)の急逝でエヴィット四重奏団(1928-30)として引き継いだ。その後アメリカでクリーヴランド四重奏団を組織(1930-34)、フランスに戻りエヴィット四重奏団(1935-39,1946-49)を作った。一方でエヴィット室内管弦楽団を組織し活躍した。

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モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466
(カデンツァ: E.フィッシャー)

エトヴィン・フィッシャー(ピアノと指揮)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

独 ELECTROLA DB 2118/21
(1933年11月24日ロンドン、アビー・ロードEMI第1スタジオ録音)
エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれで主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者、教育者。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」全曲(78CDR-1142/6)の世界初録音を行なった。フィッシャーは協奏曲の演奏で独奏と同時に指揮をする「弾き振り」の演奏法を現代に復活させた。このシリーズでハイドン:ピアノ協奏曲ニ長調作品21(78CDR-3129)が「弾き振り」で聴ける。またこのピアノ協奏曲第20番はブルーノ・ワルターの「弾き振り」でも発売されている(78CDR-3219)。

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試聴

モーツァルト:
セレナード第10番変ロ長調 K.361(370a)
「グラン・パルティータ」(抜粋)

エトヴィン・フィッシャー指揮管楽合奏団

米 VICTOR 17679/81(英 HIS MASTER'S VOICE DB 4693/5 と同一録音)
(1939年9 月ベルリン録音)
エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれで主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者、教育者でもあった。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」全曲の世界初録音を行なった。このシリーズの78CDR-1142/6で出ている。フィッシャーは協奏曲の演奏で独奏と同時に指揮をする「弾き振り」の演奏法を現代に復活させたが、ここではピアノは弾かずに指揮者に専念した録音である。第2楽章のメヌエットと第5楽章ロマンスが省略された録音である。

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試聴

モーツァルト:弦楽四重奏曲第14番ト長調 K.378

カルヴェ弦楽四重奏団
ジョゼフ・カルヴェ(第1ヴァイオリン)
ダニエル・ギレヴィッチ(第2ヴァイオリン)
レオン・パスカル(ヴィオラ)
ポール・マ(チェロ)

独 TELEFUNKEN E 2867/8
(1938年10月26日録音)
カルヴェ弦楽四重奏団はリーダーのジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)によって1919年に結成された。1928年にナディア・ブーランジェの発意でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をフランスで開いた。この録音は創立メンバーによるもの。リーダーのカルヴェ以外のメンバーは3人は1940年に離籍した。カルヴェは1935年にパリ音楽院教授になり、四重奏団の活動と同時に後進の指導にあたった。第2ヴァイオリンのダニエル・ギレヴィッチは1941年に米国に移住したダニエル・ギレ(1899-1990)で、トスカニーニー指揮のNBC交響楽団に入り1951年にコンーサート・マスターになった。またギレ弦楽四重奏団を結成、1954年にはボザール・トリオを結成した。ヴィオラのレオン・パスカルは1941年にパスカル弦楽四重奏団を結成しフランスを代表する弦楽四重奏団として名声を博した。

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試聴

リパブリック讃歌
ジョー・スタッフォードSP録音集
リパブリック讃歌
千歳の岩
日暮れて四方はくらく
主よ、みもとに近づかん
みちびきゆかせたまえ
さびしきみそのに

ジョー・スタッフォード(vo)
ポール・ウェストン楽団
ラヴェンスクロフト四重唱団

U.S. CAPITOL CC 9014(78rpm Album Set)
(Rec. 1950)(1950 年録音)
ジョー・スタッフォード(1917.11.12-2008.07.16)はアメリカのポップス・シンガー。1938年、男女 4人編成のヴォーカル・グループ "パイド・パイパース" の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わりその後ソロ・シンガーに抜擢された。1942年にバンドを辞して独立、ヴォーカリストとして新興のCAPITOLに迎えられた。このSPレコード3枚組のアルバムは1950年に発売になった。ここでは後に結婚して夫君となったポール・ウェストンの指揮する楽団と男性四重唱のバックで歌う。どこかで聞いたことがある懐かしい歌で綴られ、心が洗われる讃美歌集。スタッフォードは、その後COLUMBIAに移籍し、数々の大ヒットを出した。それらはテネシー・ワルツ-ジョー・スタッフォードSP録音集(78CDR-3280)で聴ける。

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